BSは韓流ドラマばかりだ。私も『トンイ』を録画して欠かさず観ている。昨年は「イ・サン」、その前は「チャングムの誓い」。分りやすい素直なストーリで、何も考えずにすんなりと観ておれるのがイイ。
『トンイ』を観て感じるのは、先ず<画面>が美しいこと、特に色彩が目に心地よい。ストーリ展開は極単純、<事件が起きて><主人公が困難な立場に立たされて><事件が解決して><(観ている私が)ホッとする>・・・只ただ単純に<緊張>と<弛緩>を繰り返す。
この単純な手法を繰り返すことに重点を置き、細部は全くと言っていいほどに、どうでもよい扱いですます。例えば「物陰から様子を伺う」ハズの人物が、手前の主人公の後方で「こちらを見ながら突っ立っている」とか、「アンタそれじゃあ見つかるだろう!」なんて意見は、最初から眼中にないようだ。昨晩はこうだった、息子のクムを刺客の刃からかばおうとしたトンイが、背後から袈裟懸けに斬りつけられる。ところが自室に運ばれて止血の手当を受けているのは右胸の部分・・・「アンタ、背中は・・・!」などと言っても、とても聞いてはくれないと思うのだ。「トンイが切られて大変な目に会っている」・・・<これで十分で、それ以外にナニが必要と言うのだ!>と、とりあってもらえそうに無いのである。韓国では誰一人としてテレビ局に<抗議の電話>などを入れないのだと思う。こうして娯楽として必要な要素を極端に絞り込んで、安心して気持ちよく見せる・・・これが高視聴率獲得の秘訣なんだろうか。
娯楽として受け止めるにはコレでイイし、高視聴率獲得を目指して供給する側もコレでイイ。しかし、全てコレでイイのか?・・・と言うと、そうとも言えない場合がある。『子どもの教育』だ。
『子どもの教育』とは、子どもの知識や情操、精神力など、「人間の持つ様々な可能性を身につけさせる為に考えられた工夫」に他ならないだろう。「学習する動物」である「人間」は、<自らの力で体験する>ことによってしか<能力を自分のものにする>ことは出来ない。「教育」とはその<体験のステップ>を準備してやることだ。
例えば、1年365日、毎日富士山頂にヘリコプターで登頂したとしたらどうだろうか?その子には500メートルの山を登る体力さえ身に付かないであろう。自分の力で登らなければ体力は身に付かない、自分の頭で考えなくては知力は身に付かない。
知力の点で、日本が犯した最大の過ちを『能』に見ることができる。『能』は日本に生まれた最高位の芸術で、様々な芸能の源流ともなった。『能』と言う芸術の最大の特徴は、不必要なものを最大限に削り落として舞う演者と、その削り落とされたものを最大限に埋め尽くそうとする鑑賞者の想像力との関係によって成立する点である。日本民族の優れた知性と見識は、実はこの「能」によって鍛えられ育まれたのではないだろうか。
かつては武家の教養として、茶道と共にその中核に置かれた「能」。第2次世界大戦の敗戦から経済復興に邁進した日本は、「能」と言う芸術を置き忘れてしまった。高度成長の成功体験から未だに抜けきれない日本と言う国で、今の閉塞感を打ち破る為には「暗記の受験勉強」ではダメだ、独創性創造性あふれる想像力と右脳の煌めきを取り戻さなければならない。教育システムの変換なくしては、日本の再生は無いと思う。