《ホフマン物語》“メトロポリタン歌劇場”
2010年 11月 27日
全体を観て、ゲーテの「ファウスト」がその背景に影響を与えているのではないか・・・と感じられた。1824年、ビゼーはフランス語訳された「ファウスト」を入手すると、その音楽化に強い意欲を感じる。この時オッフェンバック5歳。彼は61歳でこのオペラを未完のままに他界する。この世紀の大文豪の作品に当然のごとく触れていたであろう。
一方、ホフマンの物語3作品を基に台本を作成したジュール・バルビエにも同じことが言える。文豪ゲーテの代表作「ファウスト」を発想の下敷きにして、《ホフマン物語》の脚本を書いたのではないだろうか。全体の構成と流れを観ていると、そのように感じられてならない。
終幕の音楽を聴くと、モーツアルトの「フィガロの結婚」の最後の重唱の部分が想いおこされる。原作者のホフマンがモーツアルトを非常に敬愛していたというが、少なからぬ因縁でこのような台本と音楽になったような気がしてならない。
しかし、このオペラの一番難しい部分は、ホフマンの<三つの恋>をオムニバス形式で各幕に展開しているのだが、真正面からまじめにやればやる程、三幕相互の異質性・感覚的不調和が際立ってしまうことだ。当夜のオーケストラの音やリズムが、無骨に直裁的に出てくるのを聞いて「ひょっとして、レバイン??」・・・と思ったら、はたしてその通りであった。
彼の性格そのままに、真摯に取り組めば取り組むほど、<三つの幕>の<三つの恋>は、観衆の意識の中で互いに際立ち遠く離れてゆく。そもそもは酒場で酔っ払ったホフマンが、自分の体験談である<三つの恋>を語って聞かせるわけだが、その<三つの話>は<酔っ払いの想い出話>なのである。
終幕は<現実の場>(そこでもホフマンは「へべれけ」なのだが・・・)。それにしても、全ての幕に同質の処置を施すことで、全てが<現実の事>として感じられてしまうのはしょうがない。そうなれば、このオペラの印象はバラバラで収拾のつかないものとなり、観衆の心は当惑に絡めとられることになるだろう。
<酔っ払いの想い出話>と<現実の場>をどのような手法で観客に認知させるか・・・の問題であろうと推察できるのだが、ではどのような方法で?・・・となると、これ以上はスコアをしっかり読んで勉強しないと、何とも言えない。