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by jmc_music2001jp

ネルロ・サンティとN響

 このところネルロ・サンティの指揮するNHK交響楽団の演奏会がしばしばBSで放映される。「モーツアルトが素晴らしかった」・・・と言う噂を聞いたが、私の見たものではウェーバーの「魔弾の射手」序曲が素晴らしかった。歌劇場のオーケストラとしての伝統の無いN響から、ものの見事に『劇場』の『響き』と『空間』を具現化していた!見事と言うほか無い!

 現存の指揮者でヨーロッパの歌劇場の伝統を伝えるのはネルロ・サンティただ一人だと思う。クラシック音楽の伝統を伝えるただ一人の指揮者と言っても過言では無いと思っている。歌劇場の表から裏の全てを知り尽くした匠、名匠の名に相応しい指揮者である。私にとって、今最も敬愛する指揮者がネルロ・サンティその人だ。

 35年程前ならば、ザルツブルグのシャンドール・ヴェーグや、N響にもしばしば客演したロブロフォン・マタチッチなどクラシック音楽の『魂』を継承する指揮者が活躍していた。しかし今や、ネルロ・サンティを除いて居なくなってしまった。何故なのかは審らかでない。地球温暖化の中で、絶滅危惧種が取りざたされるように、科学技術や経済の変化が、『魂』や『祈り』を追いやってしまう社会環境を作ってしまったのだろうか.........?

 演奏会形式によるヴェルディの歌劇「アイーダ」(ネルロ・サンティ指揮/NHK交響楽団)が放映された。ネルロ・サンティの指揮する演奏で、これほどまでも音楽が空転しているのには、初めて出会った。原因はいくつか有るようだ。ラダメス(日本人)は<舌根>に力が入って、発声に課題を残す。アルトの女性は音程が不安定。音程を決定するのは<何処>なのかを明らかに知らない。アイーダも大役には力不足なのではないか…胸を開かない状態のままの発声法では、真っすぐに聴衆の心に響くソプラノらしい声は得られないのではないか。

 今ひとつ不調であった独唱者の中で、<エジプトの使者>を演じたバリトンの村松氏が、立派な響く声で好演した。又、合唱を務めた「二期会合唱団」も、よく訓練されたコーラスを聴かせ、ミラノ・スカラ座の合唱団を彷彿とさせる好演だったと思う。

 N響のアンサンブルの随所に乱れが生じたのは、残念ながら指揮のテクニックによるものだ。「指揮法」と言う演奏技術は最も最後に現れたもので、17〜18世紀においては長い杖で床を叩いたり、楽譜を丸めたものを手にして合図を与えていた程度だった。近年、オペラ座の指揮者になるには、コルペティと言ってピアノ伴奏者としての経験を沢山積んで、オペラを知り尽くした後に指揮台に上がるという手順が決まっているが、その間に特段に<指揮法>を学ぶ機会は無いのが通例であった。

 これまでにも<指揮法>上では問題があっても、偉大な指揮者であった例は多くある。その筆頭がカール・ベームとトスカニーニだろう。彼らはゆわゆる<指揮法>は学んでいない。頭の中にある「偉大な音楽」でもって指揮をしたのだ。

 今回の「アイーダ」でのアンサンブルの乱れの一因は、通常の指揮法では「予備運動」で次の拍のテンポ・音量・リズムを示すのだが、それが不明瞭であること。その指示が不明確なまま、折り返し点から点(拍)に至る「点前運動」でソレやろうとするものだから、奏者は「点」の位置が何処に来るのか予測が難しくなる。指揮者が点(拍)を打つのを見てから反応することになるので、音は指揮者の点(拍)から後に出てくることになる。オーケストラの音が独唱の歌に遅れて出てきたのは、これが原因である。エキストラのトランペットが<転げマクッテ>いたのも、指揮を見ていて「何時何処に拍が来るのか」の予測がつかずにドギマギしてしまったのが原因だ(彼にはもうトラの仕事が来なくなるだろうなぁ〜、可哀想.....)と思う。

 ネルロ・サンティが指揮する時は、楽団の若手を多く出演させているのが特徴。これは楽団の経営者の方針によるものだと推測される。実はこの件では、見る度に感心していた。若い楽団員をヨーロッパの伝統の香りに触れさせて、伝統の一端を吸収できるように・・・楽団の経営方針が地に足ついて頼もしいばかり。さすが日本を代表するオーケストラである。
 
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by jmc_music2001jp | 2010-12-14 11:39 | 芸術随想