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by jmc_music2001jp

“能”と龍安寺

 9月18日(土)は早朝に東京を発ち、新幹線で京都に向かった。11時に到着するとタクシーで宿舎へ、幸い宿舎は観世会館に徒歩で3〜4分の所、衣服を着替えてフロントに荷物を預けると、歩いて観世会館へ向かった。

 実は今回、観世流シテ方の河村晴久さんからのお招きを受けて『四季彩能』〜京八景〜を鑑賞させて頂くことになっているのだ。今日の演目は<第七景>『小督』(こごう)と<第八景>『大会』(だいえ)。河村さんは『小督』のシテ方を務められる。

 私はお能には全くの素人で、『能』の鑑賞はほとんど初めてと言っても良い。ずっと以前、知り合いの勧めで福岡の能楽堂で「俊寛」を見たと思うが、不覚にも睡魔には勝てず、かなりの時間を眠りこけてしまった・・・と言う前科を抱えている。「俊寛」については、それよりさらにずっと以前に、東京で新作オペラとして鑑賞した経験はあったのだが・・・。

 会館の舞台正面の2列目に席をとることが出来た。入り口で頂いたプログラム(A3サイズ)には、表裏に細かい字でビッシリと能の解説、色々の角度から<能へのアプローチ>を事細かに導いてくれる様子である。間もなく開演すると、ご老人が一人舞台に登場して約30分、本日の演目にまつわるお話を柔らかい口調で語ってくれた。なにしろ京という街には、能の題材に上げられた場所が現存するのだから凄い。文化と歴史と現代が、感覚の中でリンクする。自分の中に眠っていた日本的精神文化がゆっくりと目覚めてくる思いがした。

 『小督』が始まると、《言葉》が良く聞こえてきた。これはプログラムの解説と事前の解説により、物語の背景と流れが理解できたことによるものと思う。そもそも「能」とは、それ等諸々の教養を身につけた人が、その教養を基に自らの《イマジネーション》を膨らませ、(自らの意をもって)「能」の<演じられていない部分><表出されていない部分>を<現実の生命感>で満たすことにより「生の感興」を味わう、その為の《仕掛け》に他ならないのではないか、と思われる。

 翌日の夕方、龍安寺を訪ねた。30年前、留学中の一時帰国で、どうしても尋ねたくて訪れた石庭。腰を下ろした瞬間に、眼前の白砂が一気に焦点を結んだ衝撃的な体験を思い出す。人はよく15の石についてアレコレ語るようだが、私は「石」は単なる《仕掛け》以上のものでは無いと思っている。核心は石と石とによって区切られた『空間』に存在する。配置された石が、そこに焦点を結ばせるのだ。水戸光圀が寄進したと伝えられる“つくばい”に『吾唯足知』と印されている。『ワレ、タダ、タルヲ、シル』、焦点を結んだ《白砂》のいずれもが、そう語っていると感じられるのだ。

 『お能』における舞台装置・音楽・地謡・所作は、全てこの配置された「石」に他ならないのではないか。<小督>が終わり、舞台から演者が静かに退場する様を見ながら、能の本質は『余韻』にあるのでは無いか・・・と思った。今静かに幕を閉じようとするその背後に、「人の世を生きる」とか「人を愛する」と言う『永遠のテーマ』が浮かび上がってくるのが感じられたからだ。

 お能が完成されたのが1410年頃、龍安寺が建立されたのが1450年。室町時代に完成された此れ等の様式は、ユネスコの世界遺産に登録され、今や世界の宝物と認識されている。我々日本人も、心を澄ませて、もう一度見直してみる必要があるのではないだろうか。
<終演後、楽屋で河村晴久さんと。2枚目、龍安寺石庭にて>
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by jmc_music2001jp | 2010-09-20 20:48 | 芸術随想