歌劇『フィデリオ』 (2003年・イースター音楽祭)
2011年 06月 19日
ベルリン・フィルは最も国際色豊かな団員で構成されている。世界の優秀な技量を持った音楽家で編成されたオーケストラ、つまりは最も純粋に演奏技量の高さだけで集められた集団であり、そこでは《伝統》と言う《薫り》が非常に薄く、中性的な美しさを持った楽団であるとも言えよう。
この『フィデリオ』においては、オーケストラ全員が十分に<理解>し、十二分の技量で取り組んだ、クオリティの高い世界が実現していた。ベートーベンへの理解、『フィデリオ』への理解、オーケストラ全員が疑いの無い共通の理解に立って『フィデリオ』の世界に《共鳴》している。
21世紀に入って、ベートーベンは<ドイツの伝統芸術>から<人類の世界遺産>に昇華されたのではないだろうか。世界共通の理解の上で<共有><共感>されたのが、当夜の『フィデリオ』だったのではないか。人類の精神が『新時代』に入ったのだと思う。インターネットにまつわる昨今の世界情勢の変化とも、同調しているように感じられる。
ザルツブルグの新演出(時代を現代に置き換えた、中途半端な舞台装置・衣装・演出)は相変わらずだったが、それが気にならに程に演奏が本質を貫いていた。音楽が本質を表出していれば、其の他の事はさほどの問題にならない・・・これが「音楽」であることの意味だし、「音楽」の力なのだと思う。それを、この『フィデリオ』は証明してくれたと思う。
フロレスタンとレオノーレが、助かった喜びを歌い上げるニ重唱には疑問が残った。ラトルが、その後の合唱部分をクライマックスとして、「喜び」を表出しようとした意図は、彼のリズムの処理を聴けばハッキリと伝わる。
しかし死の危機に追いつめられたフロレスタンとレオノーレ、危機の頂点でフェルナンドの到着を告げるラッパの音、「緊張の極限」から『助かった・・・!』と言う<安堵>へ、そして沸々と沸き上がる<歓喜>。ここがこのオペラのクライマックスではないのだろうか。その後の合唱の部分は「喜びの余韻」だと思うのだが・・・。
この余韻は会場の聴衆にも共有され、その時聴衆はこのオペラを「納得」するのだと思う。劇場を後にした道すがらにもこの余韻は残り、聴衆は『そうだよなぁ....』と当夜のオペラの感慨を反芻しつつ家路につくのではないだろうか。これがオペラの『醍醐味』である。