“表現スタイル”武満徹とワーグナー
2013年 01月 29日
昨年11月のN響定期をBSで観た。エド・デ・ワールトの指揮、堀正文さんのヴァイオリン独奏で、武満徹のニ作品を前半に、後半は一転してワーグナーの楽劇「ワルキューレ」と言うプログラム構成でした。
観ていて考えさせられたのは“表現形式”。“表現スタイル”と言うのでしょうか・・・演者は“心にある想い”を芸術と言う手段を用いて表出しようとするのですが、そこには自ずから“表現”の為の“スタイル”や“方式”が立ち現れてまいります。その事について、考えさせられました。
日本の芸術にも、ヨーロッパの芸術にも“表現のスタイル”は当然ございます。一番分りやすい例をひくならば、イタリア・オペラのアリアやカンツォーネの表現スタイルと、日本の能のシテ方の所作とを較べてみれば、全く異なるスタイルが存在することは明白です。
武満の「遠い呼び声の彼方に」が演奏されたのですが、この作品には明らかに能の表現スタイルから立ち現れる精神性を感じ取ることができました。ここでシテ方の醸す精神性と鼓が生み出す緊張感はオーケストラ・パートにゆだねられていました。独奏ヴァイオリンは、あたかも謡曲を謡うように、物語の進行を語ってゆきます。
我々は西洋音楽に取り組みながら、「想い」を「表出」する西洋のスタイルで演奏を続けてきた訳です。しかし日本の精神性は、元来「強い想い」ほど「強く内側に押さえ込む」と言うスタイルで(あえて言うなら)表出されて来ました。その「強い想い」を西洋スタイルで「表」に表出してしまったので、オーケストラの音は大きくなり、語り手であるヴァイオリンの音をかき消してしまう、と言う結果をまねいていました。
武満の意図からすれば、フォルテになっても音量は変えず、精神性の内側だけに大きく膨らませて・・・その結果生まれる<音質の変化>に答えを求めるべきであったのでしょう。西洋人であるエド・デ・ワールトに要求するのは無理でしょうが、一度楽譜を読んでみたいものだと思いました。
一方ワーグナーは、指揮者もオーケストラも自家薬籠中とした表現能力でワーグナーの世界を表出していました。しかし表現スタイルと言う点で、昔から気になっていたことが、この演奏にも感じられたのです。
3人の独唱者が歌いましたが、そもそも楽劇と名付けたワーグナーの意図について、理解が不十分なのではないか・・・と思うのです。ワーグナーは私も楽譜を読んだことがあるので、私自身としては確信しているものがあるのですが、歌手にとっての“表現スタイル”に、ほとんどの例において間違いがあるのでは無いか?・・・と思っています。
通常、オペラ歌手はアリアを(当然のごとく)「歌」として歌い上げます。同じ<音符>を使用してはいますが、ワーグナーの楽劇では「歌」として歌うのは誤ったアプローチであろうと思います。あれは『台詞』であって、歌ってはならない物・・・『語る』ひつようがあるのです。それを「楽譜」=「歌」と言う何とは無しの思い込みのままで取り組んでしまうので、なんとも中途半端で分りにくい結果を招いている例が非常に多いと思います。
では何故<音符>が使われているのか・・・ここはソノ音符間の「音程」に注目することが重要だと思います。2音間の音程が、<半音>である場合と<3度>である場合とで、「想い」にいかなる違いが発生するのか・・・その「想い」こそが、この『台詞』が内包する『想い』であり、その『想いを語る』のが歌い手に与えられた役割でありましょう。『音楽』は全て、オーケストラが担当しています。これがワーグナーが新たに創作した“表現スタイル”=『楽劇』というものではないでしょうか。
観ていて考えさせられたのは“表現形式”。“表現スタイル”と言うのでしょうか・・・演者は“心にある想い”を芸術と言う手段を用いて表出しようとするのですが、そこには自ずから“表現”の為の“スタイル”や“方式”が立ち現れてまいります。その事について、考えさせられました。
日本の芸術にも、ヨーロッパの芸術にも“表現のスタイル”は当然ございます。一番分りやすい例をひくならば、イタリア・オペラのアリアやカンツォーネの表現スタイルと、日本の能のシテ方の所作とを較べてみれば、全く異なるスタイルが存在することは明白です。
武満の「遠い呼び声の彼方に」が演奏されたのですが、この作品には明らかに能の表現スタイルから立ち現れる精神性を感じ取ることができました。ここでシテ方の醸す精神性と鼓が生み出す緊張感はオーケストラ・パートにゆだねられていました。独奏ヴァイオリンは、あたかも謡曲を謡うように、物語の進行を語ってゆきます。
我々は西洋音楽に取り組みながら、「想い」を「表出」する西洋のスタイルで演奏を続けてきた訳です。しかし日本の精神性は、元来「強い想い」ほど「強く内側に押さえ込む」と言うスタイルで(あえて言うなら)表出されて来ました。その「強い想い」を西洋スタイルで「表」に表出してしまったので、オーケストラの音は大きくなり、語り手であるヴァイオリンの音をかき消してしまう、と言う結果をまねいていました。
武満の意図からすれば、フォルテになっても音量は変えず、精神性の内側だけに大きく膨らませて・・・その結果生まれる<音質の変化>に答えを求めるべきであったのでしょう。西洋人であるエド・デ・ワールトに要求するのは無理でしょうが、一度楽譜を読んでみたいものだと思いました。
一方ワーグナーは、指揮者もオーケストラも自家薬籠中とした表現能力でワーグナーの世界を表出していました。しかし表現スタイルと言う点で、昔から気になっていたことが、この演奏にも感じられたのです。
3人の独唱者が歌いましたが、そもそも楽劇と名付けたワーグナーの意図について、理解が不十分なのではないか・・・と思うのです。ワーグナーは私も楽譜を読んだことがあるので、私自身としては確信しているものがあるのですが、歌手にとっての“表現スタイル”に、ほとんどの例において間違いがあるのでは無いか?・・・と思っています。
通常、オペラ歌手はアリアを(当然のごとく)「歌」として歌い上げます。同じ<音符>を使用してはいますが、ワーグナーの楽劇では「歌」として歌うのは誤ったアプローチであろうと思います。あれは『台詞』であって、歌ってはならない物・・・『語る』ひつようがあるのです。それを「楽譜」=「歌」と言う何とは無しの思い込みのままで取り組んでしまうので、なんとも中途半端で分りにくい結果を招いている例が非常に多いと思います。
では何故<音符>が使われているのか・・・ここはソノ音符間の「音程」に注目することが重要だと思います。2音間の音程が、<半音>である場合と<3度>である場合とで、「想い」にいかなる違いが発生するのか・・・その「想い」こそが、この『台詞』が内包する『想い』であり、その『想いを語る』のが歌い手に与えられた役割でありましょう。『音楽』は全て、オーケストラが担当しています。これがワーグナーが新たに創作した“表現スタイル”=『楽劇』というものではないでしょうか。
by jmc_music2001jp
| 2013-01-29 02:32
| 芸術随想



