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by jmc_music2001jp

クラシック音楽/日本の問題ー[Ⅳ]

 人間は『学習する動物』です。その<学習>で最も重要なものは、幼児期の母親との接触。『三つ子の魂、百までも』と言われるように、子供の『魂の核の形成』に重要な働きをもたらします。

 次に<学習>において大きな影響を与えるのが、生まれ育った土地の<気候風土>や<宗教><伝統文化>であります。学習したものは『自覚』され<自我の形成>を働きかけますが、学習しなかったものは<自我>の外側で永久に消滅します。

 西欧は「キリスト教文化圏」、北ヨーロッパ(ロンドン、パリなど)は「西岸海洋性気候」、地中海沿岸(ローマ、アテネなど)は「 地中海性気候」で、共に日本とは異なります。「モンスーン気候」「仏教文化圏」である日本人の場合、当然のことながら西欧とは異なる内容を<学習>しながら育つことになります。

 さて18世紀〜19世紀、キリスト教文化圏の西欧に打ち建てられた人類の金字塔「クラシック音楽」。人類の金字塔には違いないのですが、「モンスーン気候」「仏教文化圏」で育った日本人の場合は、<受け止める側>の問題をどう捉えれば良いのでしょうか?

 ウィーン留学中、ある日の指揮のクラスでオトマール・スウィートナー(1922年ー2010年/ ベルリン国立歌劇場: 音楽監督/ NHK交響楽団:名誉指揮者)がシューベルトの緩徐楽章についてこんな説明をしました。「この曲はウィーンの森で 木々を見上げながら散策をしているのだ」と言って、手を顎にあてがって木々の梢を見上げながら歩く様子を見せてくれました。私もウィーンの森を散歩して、その空気や様子を知っています・・・「正に、その通り!そのものズバリ!」内心感嘆の声を上げながら、その空気・風に揺らぐ梢や周辺の雰囲気とシューベルトの音楽の完全な一致に驚いたものでした。

 音楽は<音と心の間の共鳴関係>で成立する芸術です。それは同じ振動数を持つ[音叉]同士が、[共鳴箱]を接することで(本来振動していなかった)音叉が共振する関係に同じです。ウィーンの森の散策に覚えた深い印象の、その気温や風の様子、空や揺れる梢の様までがシューベルトの『音楽』の中に流れ、私の心に記憶の中の風景を呼び覚まさしてくれました。しかし、「ウィーンの森」を体験していない日本人が、このシューベルトを聴くことの意味は何処に在るのでしょうか?

 シューベルトはこの曲をウィーンの森の様子を<描写>する目的で作曲したのでしょうか?答えは勿論「否」です。空と雲の輝き、頬をなでる風と揺らぐ梢のざわめき、柔らかな土の感触と優しい野の草花・・・これら全て、創造主が造り賜うた《自然》に対峙する《自分》という存在の不思議。シューベルトの目はそこに向けられています。それは『魂の目』をもって対峙しなくては、決して《自覚》できるものではありません。

 《魂の自覚》・・・これこそがクラシック音楽が《人類の金字塔》である所以であります。《魂の自覚》を求め促す芸術として、クラシック音楽が世界の宝であり続けることは、永遠にかわらないでしょう。しかし「ウケ狙いの演奏」スタイルや、奇をてらう衣装や照明で注目を集めようとする演奏ユニット、はたまた間抜けなオペラ演出などを見ていると、ある意味<クラシック音楽の危機>の時代であるとも思えます。

 私は日本人に伝統的に備わっている『高度な感性』や『精神性の高潔さ』を信じています。かつて、歴史の中で「和魂漢才」を見事に消化吸収し、日本人の血肉と化した民族の力を信じています。「トーサイ・ミュージック・ネットワーク」(Tom-net)は、そのような時代の到来に資する活動として、推進してまいりたいと願っております。
by jmc_music2001jp | 2015-10-11 13:36 | 芸術随想