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by jmc_music2001jp

“あっぱれ”な人生

 1978年、無類の“蝶”好きの中村哲が、蝶の採集にパキスタンを訪れ、そこでハンセン病に苦しむ人々に出会ったのが始まりであった。

 中村哲には“大きな愛”があった、医師として病気を治療する<知識>と<力>があった彼が、病気に苦しむ人々を目の前にして、治療に向かう事に何の躊躇もためらいもなかった。これがペシャワールに診療所を作り、無償の治療活動を始めた動機だ。それを日本から支えたのが<ペシャワール会>だった。1984年、中村哲38歳。以後35年間、凶弾に倒れる2019年12月4日まで、その命を賭してアフガニスタンの人々の為に尽くし続ける。

 十数年前、西日本新聞会館15階のロビーで、偶然に彼と出会った事がある。短い時間お話をしたが、その時<ペシャワール会>への想いを「足を向けて寝れない」という言葉で語っていた。

 <ペシャワール会>と彼の『想い』は完全に一体化して、<ペシャワール会>の存在は「自分自身の力」と感じていたに違いない。「きれいな水さえあれば死なないで済んだ」であろう子供たちを目の前にして、数千の井戸掘りプロジェクトに取り掛かる。2000年の大干ばつを体験して、水路を築くことがアフガンの復興に先決の課題だと判断し、プロジェクトにとりかかる。重機の操作は学べばできると思ったし、治水技術も調べれば分かるハズだと考えた。<力>は<ペシャワール会>が与えてくれると確信している。

 全長25Kmのマルワリード用水路が完成し、16,500ヘクタールの砂漠に緑が戻り、20万人の干ばつ難民が戻り、再び農業に従事できた・・・アフガン復興の雛形となった事業が成功したこの時期に、凶弾に倒れた中村哲の死を、文字通り世界中の人々が悲しんだ。

 福岡における葬儀の最後、アフガンの国旗に包まれた中村哲の棺が、霊柩車に運ばれ、参列者全員が頭をたれ合掌する中で、出立の合図が長く高らかに響いた瞬間、華奢な女性の手のひらが、何かに突き動かされたように『拍手』を始めた、その拍手は瞬く間に大きな“うねり”となって高まり、中村哲の棺は会衆の『賞賛の拍手』に包まれながら、ゆっくりと斎場を後にした。

 創造主の意図の核心とも言える“愛”を、ためらう事なく、大きく・強く・真っ直ぐに“行動”し続けた中村哲の一生は、真に『天晴れ!』な人生であった。
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by jmc_music2001jp | 2019-12-16 13:53