毎日新聞(夕刊) 1980年(昭和55年) 4月14日(月曜日)
音楽と言葉 大畑恵三
ウィーンのミサから考える
精神のあり方を 自覚させる音楽
一九七九年の暮れは、生まれて初めて外国で過ごすことになった。暮れはまずクリスマスである。日本でも毎年教会のミサには参列していたので、キリスト教国での初めてのクリスマスは最初から大きな期待を持った事柄の一つであった。ウィーンには、町の中心となっているシュテファン大聖堂を初めとして多くの教会があるが、私はバロック教会として有名なカールス教会のミサに参列した。
二十四日は霙(みぞれ)まじりの大変寒い日で、ミサの始まる一時間半ほど前に教会に着いた。夜の十一時から、神父様のお祈りとパイプオルガンの演奏するバッハを交互に聴きながら二十五日の午前零時を迎える。三々五々集まった信者達で教会の中は一杯になり、零時十分から室内オーケストラとパイプオルガン、合唱、独唱つきのクリスマスのミサが始まった。
最初のお祈りの後にかすかに音楽が聴こえてきた。暗く静かな教会の中に流れ込んでくるその音楽は、聴く人の心を何か遥(はる)かなものへ向けさせるようであった。きっとこの人達は、この音楽を耳にしながら再びめぐり来たクリスマスと人生の来し方について想うのであろう。心が静まり、そして心が何かを迎えようと跪(ひざまず)くのを覚えた。
続くお祈りの最中に、オーケストラと合唱が祭壇とは反対側にある二階のパイプオルガンの位置に着く。私はオーケストラを背にして、中央通路の手前の一番前に立った。
正面に祭壇があり、見上げると神を示すものであろう黄金色の紋様がある。お祈りと交互演に演奏される音楽を聴きながら、私は終始この紋様を見上げていた。そうするうちに、祭壇上の紋様が演奏される音楽によって違って見えてくることに気が付いて驚いた。演奏される音楽によって教会内の空気がまるで変わってしまったように感じられ、見上げている紋様までが違って見えてくるのである。人間の五感とは、いったい何であろう。
音楽は喜びを語り、神に対する畏(い)敬の念を表し、人生の至福を表現し、厳粛な気持ちを起こさせ、輝かしい神の栄光を示すーー何と言うことだろう。人々は間違いなく演奏される音楽によって導かれているのである。音楽は人間の五感の根源に直接作用し、心の在り方を整え、それを呼び起こす。それは特定のサイクルを持つ音叉(おんさ)が共鳴箱を接して共鳴し合うような状態に似て、我々人間の精神の奥底に作用し、ある精神の在り方を自覚させてくれる。
確かに全員が自覚しているのである。それは「聴いている」という言葉では説明し切れない状態であり。ましてや「鑑賞」などというのん気な言葉とはまるで縁のない世界なのだ。そして、それはいかに精密に組み立てようとも「言葉」というザルには引っかかってはくれない代物である。「感動」という自覚から何人もの人が音楽を言葉の中に捕らえてみたいと欲求し、苛(いら)立つのだが、ついに一人として成功したものはいない。
言葉は精神の根源の自覚を説明するには、あまりにも曖昧(あいまい)でありすぎるのだろう。それは音楽による自覚のあまりにも明確な事と、好対照をなしている。自覚には言葉は不要である。それには、おそらく「祈る」という精神状態が最もふさわしいのかもしれない。
ミサの終わり近くになって、世界中の誰もが知っている歌「きよし この夜」が全員の合唱で演奏された。この時、教会内の空気は神の高みではなく、共に生き共に集う人々の共感を感じさせてくれた。音楽がミサの内容を語り、その祈りの心を導き出し、神の世界にふれさせてくれる。
毎日曜日のミサ、毎年のクリスマスーーこうした中で西洋の音楽は、人間にとって最も大切なものとともに、はぐくまれ育てられてきたのだ。
(指揮者。ウィーンに留学中。留守宅は福岡県大野城市)
<写真>ウィーンのカールス教会(昨年12月25日、大畑氏写す)