<音楽ブログ・ランキング1位!>
2023年 10月 11日
私の高校の同級生で大分のS君が居る。彼は大のオーディオ・マニアで、自宅の頗る高級なオーディオ装置であらゆるジャンルの音楽を楽しんでいる。その彼は「オーディオの小部屋」と言うブログを書いていて、<音楽ブログ・ランキング>(クラシック部門)で10年以上にもわたって第1位の座を占めている。
先日、久しぶりにブログを覗いてみると、音楽のプロとオーディオに関して書いていたのだが、その文章で私のことにも触れていて驚いた。
「オーディオの小部屋」(10月9日)
「指揮者や演奏家などの音楽関係者は総じてそれほどオーディオに熱心ではない」ことに何となくお気付きの方は多いと思う。
高価なオーディオシステムをそろえて「悦に入っている」のは、大半が素人さんだよね(笑)。
さらに身近な例をあげると、桐朋学園を卒業後渡独して指揮者「チェリビダッケ」の薫陶を受けた高校時代の同窓生をはじめ、プロと称される音楽家でオーディオに熱心な事例を未だ見聞したことがない。
・・・偶然に驚いたが、昔の新聞への寄稿文にその<答え>に当たるものがあることを思い出して、寄稿文の一部を抜粋して彼にメールした。
(昭和54年10月19日 西日本新聞 文化欄
熱狂を読んだ小澤征爾 ーザルツブルグ音楽祭ー 大畑恵三
より抜粋)
なかでもバーンスタイン指揮、イスラエル響によるプロコフィエフの『交響曲第五番』は。名演中の名演だった。立体映画でも見ているかのように、つぎからつぎへと飛び出してくるリズムと音の渦は会場全体を巻き込んでしまい、楽章間の小休止にもセキ一つ聞かれないほど異様なふん囲気になってしまった。バーンスタインの偉大さを十二分に知らされた演奏会だった。
それにしても、音楽の一番肝心なものは、レコードにはけっして入りきれないのだと痛感した。マイクロフォンから採られた音は、その音楽の外形と骨組みをレコードの音溝に残すのみで、今しぼり出され、生まれたばかりの音楽のエーテルのようなものは、そのときの聴衆の心に強い印象を残したまま、元の宇宙の裏側に消え去ってしまい、けっして現在のマイクロフォンでは採集できないものなのだ。この点が、出来、不出来はあってもナマの演奏会でなければならぬ決定的理由であり、もしレコードだけで音楽的感性を養うとすれば、それは恐ろしいことだ。
先日、久しぶりにブログを覗いてみると、音楽のプロとオーディオに関して書いていたのだが、その文章で私のことにも触れていて驚いた。
「オーディオの小部屋」(10月9日)
「指揮者や演奏家などの音楽関係者は総じてそれほどオーディオに熱心ではない」ことに何となくお気付きの方は多いと思う。
高価なオーディオシステムをそろえて「悦に入っている」のは、大半が素人さんだよね(笑)。
さらに身近な例をあげると、桐朋学園を卒業後渡独して指揮者「チェリビダッケ」の薫陶を受けた高校時代の同窓生をはじめ、プロと称される音楽家でオーディオに熱心な事例を未だ見聞したことがない。
・・・偶然に驚いたが、昔の新聞への寄稿文にその<答え>に当たるものがあることを思い出して、寄稿文の一部を抜粋して彼にメールした。
(昭和54年10月19日 西日本新聞 文化欄
熱狂を読んだ小澤征爾 ーザルツブルグ音楽祭ー 大畑恵三
より抜粋)
なかでもバーンスタイン指揮、イスラエル響によるプロコフィエフの『交響曲第五番』は。名演中の名演だった。立体映画でも見ているかのように、つぎからつぎへと飛び出してくるリズムと音の渦は会場全体を巻き込んでしまい、楽章間の小休止にもセキ一つ聞かれないほど異様なふん囲気になってしまった。バーンスタインの偉大さを十二分に知らされた演奏会だった。
それにしても、音楽の一番肝心なものは、レコードにはけっして入りきれないのだと痛感した。マイクロフォンから採られた音は、その音楽の外形と骨組みをレコードの音溝に残すのみで、今しぼり出され、生まれたばかりの音楽のエーテルのようなものは、そのときの聴衆の心に強い印象を残したまま、元の宇宙の裏側に消え去ってしまい、けっして現在のマイクロフォンでは採集できないものなのだ。この点が、出来、不出来はあってもナマの演奏会でなければならぬ決定的理由であり、もしレコードだけで音楽的感性を養うとすれば、それは恐ろしいことだ。
by jmc_music2001jp
| 2023-10-11 16:07




