それに今や円熟の境地にあるアバド。音楽は滑らかに進んでゆく・・・これはアバドの音楽的感性と洗練された指揮テクニックの賜物。音楽はあくまで滑らかに澱みなく流れる・・・そこには「毒」もなければ「酔っぱらいがオダを巻く」ことも無い。これは4番と言う「天国」的な「幸せ」のシンフォニーのせいなのだろうか?それにしても、全く「灰汁」が取り除かれた音楽(マーラー)となっている。
第3楽章には、只ただ静寂な美しい時間だけが流れた・・・しかしマーラーが意図したものは伝わって来なかったように思う。口の悪い輩にかかると「それがドウした?」と言われそうな演奏。マラーは徒然なる想いを旋律に込めようとしたのではないか。言葉に現せない想いだからこそ音楽に込めようとしたのだろう。
話は変わるようだが、優れた日本料理の板前が根菜の煮物をつくろうとした時、<ごぼう>の持つ「土の香り」を美味しさの要素として前面に出そうとするだろう。<蓮根>でも<人参>でも<里芋>でも、それぞれの持つ「香り」や「灰汁」などの個性的な部分こそが、根菜そのものの存在を感じさせてくれるのではないだろうか?
しかし、料理人アバドは全ての<アク>を完全に抜きとって、透明で美しく美味しいが、個性の無い料理にして提供した。大変優れた人だと思うだけに・・・チョット残念。
第4楽章前半の独唱が終わった中間部で、弱音器を付けた弦楽器が<胸をくすぐる>ような弱音を奏でた。この部分が今回の演奏で最高の出来であったと思う。これだけでもう十分だ。4楽章はアバドの解釈そのもので正しいのではないかと思った・・・全てが「天国的」で・・。
倉庫や物置の片付け・整頓なども沢山やったが、昨日は撮りためていたハイビジョン映像をハードディスクに移す作業もおこなった。なにしろ情報量が多いので、かかる時間も半端では無い。
そんなコンナが終わると・・・なんともスッキリした気分になった。9月から新しい事柄に邁進しよう・・・勿論、本命は電子書籍出版だ。現在、クラリネットの第一人者である浜中浩一さんの「初級」の制作が進行中、8月に入って勢いがついてきた。8月末を目処に制作の第一段階を終える予定。9月からは挿入する静止画像のカットや数を検討、導入する<動画>の種類・内容について検討を重ねる予定になっている。
カティア・ブニアティシヴィリ。名前からしてロシアのピアニストではなかろうか。この若い女流ピアニストは。ロシアのピアノ教育システムの完成度の高さ、その成果を遺憾なく発揮して、難曲のラフマニノフを難無く演奏してのけた。
ロシアのピアノ教育システムのレベルの高さを世界に示した演奏と言えるだろう。ため息が出る程の完成度の高さである。「ピアノはどう弾くべきものか」について、技術と音楽の両面が表裏一体、完璧な世界に結実している。
オーケストラは若手ばかりを集めた<ユース・オーケストラ>であったようだが、必要な事は全て出来ていた。オケにせよソリストにせよ、若手を育成するシステムが出来上がっているように思う。一人指揮者だけが老人であったのも、十分に頷ける。それにしても、ココ迄出来て本当の<才能が育つシステム>だと言えるのだ!ロシアとヨーロッパの歴史の厚みを感じた映像であった。
カティア・ブニアティシヴィリのアンコール曲はリストの「愛の夢」。感傷では無い、『詩』そのものの『音楽』。素晴らしい《詩人》である!今、日本に『詩人』を育て上げるだけの環境や教育力があるだろうか?
ここ数日の雨模様で気温は随分と下がって、この季節にしては過ごしやすい日曜日。例会の始まる夕方には、幸いにして雨も上がりました。18時に開会、桃原(とうばる)会長の会長挨拶に続いて、今月の歌「夏は来ぬ」を斉唱。季節感からすると3〜4週間遅れではありますが・・・「まあイイか」と言う訳で取り上げました。声を出して歌うと言うこと自体、気持ちの良いものです。
今月の演奏はピアノ独奏が安村真紀さん。ショパン作曲「ノクターン遺作嬰ハ短調」「前奏曲Op28-8」スクリャービン作曲「幻想曲Op28」の3曲を披露してくれました。続く演奏はソプラノの亀井直子さん。彼女はライフワークにしている日本歌曲「宵待ち草」「待ちぼうけ」「ペチカ」「博多人形」「福岡の四季」を歌ってくださいました。
演奏後は福岡の代表的な料亭「老松」のお弁当に、日本酒「八海山」(純米吟醸)を合わせて、美味しくいただきました。美味しい食事、親しい友との楽しい会話・・・これが何とも“心嬉しい時間”でありました。こうした心楽しく充実した集いの先に、必ずや優秀な音楽家が(自然と)育ってくる・・と信じています。もちろん、これだけではなく、育てる為の色々な工夫を重ねてまいるのは言う迄もありません。
<ピアノ安村真紀さん、ソプラノ亀井直子さん>


東京大学の教授が科学的見地から収集したデータの結果を真剣になって国会の場で訴えている映像です。ところが、私自身この情報は初めて得たものでしたし、政府・役所・マスコミからは「放射能は心配する程のレベルでは無い」と印象付けるような発言ばかりが流れているので、一度シッカリ確かめた方がいいな・・・と思い始めました。
とにかく皆さん、情報は自分の労力を使って収集・調査し、自分自身の責任で判断すべきことには違いありません。情報源を提供いたします。ご自分でご覧になって、判断の材料またはキッカケとなさってください。
You Tubeで「東京大学先端科学研究センター・児玉龍彦教授」で検索して出てきたものです。皆さん一度見ることをお勧めします。
http://www.youtube.com/watch?v=-LGX6-y72Yg&feature=feedlik
開演まえの時間に劇場の周辺を散策する様子や、開演を知らせるファンファーレなど、ワクワクさせるものがあったが、開演すると、いつものドイツ風新演出に少なからず失望した。
歌手は流石の実力者をそろえていて圧巻、オーケストラも寄せ集め楽団にしては良い出来だと思うし、指揮者も悪く無いと思った。しかし。何よりも『邪魔』なのは演出だ。衣装そして舞台、それを総合する演出手法・・・ブーレーズは「芸術は変わり続けなくてはならないのです」と言っていたが、芸術の永遠性と変革の必然性との関連は一体何なんだろう?疑問だけが残った。
ゲルマン民族の神話を題材としたこの『楽劇』は、楽譜(音楽)も歌詞も全く変わらない上で、『何』が一体芸術として新しくあれるのだろうか?《ニーベルングの指輪》のバイロイト初演の為の練習の場で、ワーグナーはこう語っている。「楽劇、音楽と劇とが対等に手を結んだもの。つまり従来のオペラのように歌だけが重視されたり、歌手だけが目立ってはいけないのです。音楽を中断して拍手を浴びたり、不自然に客の方ばかりを向いたりすれば、劇の流れが途絶えるばかりか登場する神々が滑稽なモノになってしまいます。私は音楽と劇との最高のバランス、歌と言葉と動作が最高のバランスで保たれることを望みます」
全ての要素が最高のバランスを保ちながら楽劇の本質を描き出してゆく。これがワーグナーの望んだ世界であった。果たして今日の新演出が、ワーグナーの望みを新しく叶えるものとなったであろうか?大いに疑問だ。
例えば、<源氏物語>を舞台にかけたとしよう。プレイ・ボーイ光源氏が、上下の白のタキシード(おまけに白のシューズ!)を着用して、真っ赤なランボルギーニ・カウンタックに乗って登場してきたとしよう。女性群もそれぞれ胸の谷間を強調し、背中が全部見えるようなドレスを着て登場する。それでもテキストは源氏物語そのものを使い、語る口調も昔のままだったとすると・・・・見ている我々に、頭の中でドウつじつまを合わさせようと言うのだろうか?想像していただきたい、同じようなスタイルでワーグナーの楽劇を演じているのだ。
目に映る<舞台>と<衣装>は、このところ相変わらずの<ザルツブルグ・スタイル>だが、私の耳を引きつけたのは、その<演奏>であった。オーケストラも歌も・・・放映を知らずに途中から見たものだから、始めは「誰」の作品で「何処」の舞台なのかは分らなかった。
しかし、音楽は<R.シュトラウス>であり、オーケストラの『音』は<ウィーンフィルハーモニー>なのだ。そして、音楽そのものは、正に『ウィーンフィルのR.シュトラウス』なのである。番組情報を調べると、正にその通り!作品は「影の無い女」であった。
R.シュトラウスは永くウィーン国立歌劇場の音楽監督を務め、彼の作品は国立歌劇場やウィーンフィルと共に生まれ育ってきた経緯がある。だからR.シュトラウスにはウィーンそのものと言った味わいがあって、今回もオーケストラの音(演奏)を聴いた瞬間に「アッ!ウィーン・フルだ」そして「R.シュトラウス」だと思った。彼らにしか出せない<音色>と<音楽>、懐かしいそれ等の音楽にすっかり幸せな気分になった。
我々の<jmc欧州音楽の旅>は2年に1回実施してきたが、最初の4回程は必ず最後にザルツブルグを訪ねて、4日から1週間を滞在型で過ごしていた。もちろんメインはザルツブルグ音楽祭。幸せな『非日常』がそこには在った。しかしカラヤンの死後、簡略な現代風舞台装置と現代の衣装を身につけた、今日に続く演出手法に変わってから、通過都市として訪問することは在っても、ザルツブルグ音楽祭を鑑賞することは決してしなくなった。
今晩の「影の無い女」は、相変わらずの演出手法ではあったが、余りにも『音楽』が良かった、オーケストラも歌手も指揮者も・・・。演出に疑問を感じても、その演奏の良さが心を引きつけて、疑問などどうでもよくなってしまうのだ。いい音楽を聴けて、久しぶりに心が幸せになった。
<酒飲み>としては何とも悔やまれる<大惨事>であり、『お酒の神様』に謝らなくてはならない。先のスパークリングワインと赤ワインはスッパリと廃棄処分(今日中に実行)するが、新たな酒については不意を突かれたような気分で、とりあえず冷蔵の酒蔵に移している・・・お酒も、喜んで飲んであげれば『本望』であったろうに・・・。
今日はこれから両親のお墓の掃除に出かける。夕方にかけて奇麗にして、お盆を迎えよう。
この所は自宅の2階の倉庫を“整然”たる姿に変えようと決意して取り組んだ。現在、すでに倉庫内には2個のスチール棚が組み立てられ、収納ケースが並び、そのケースにも順次“ラベル”が貼られて、整理が進んでいる。実はこの倉庫、スチール棚が大きくて、組み立てた後では倉庫の入り口からは入らず、倉庫内で組み立てるにはコレ又寸法が大きくて、本来の横に倒してから組み立てる手順が踏めない。4本の柱を壁に斜めに立てかけてから、上部の天板をネジで留め、次に底の板をネジで留めると言う手順でしか作業が進められなかった。それがいか程に大変な作業であったかは、とても言葉では表現できないので、書くのは止めておく........。
この作業の前段階、倉庫の中身を外に出した時点で<とほほ>は発生した。何と、段ボール箱から<スパークリング・ワイン>が5本程現れた!これを一先ず所長室の冷蔵酒蔵に移動させ、その後(ダメだろうなぁ、と思いつつ)一本を開けてみると.....とても飲めた物では無い(当然か....)。2日後に実験的に料理を少量作って、それに入れてみた・・・少し“マシ”だけど、美味くは無い・・・情けない程、実に“未練”たらたらなのである。
ところが!<スパークリング・ワイン>が姿を現した翌日・・・他の段ボール箱から1ダースの赤ワインが出現した!1983年のヴィンテージの特級ワイン・・・とある。これも1本開けてみると・・・“無惨!”。それでも未練たらたらデキャンターして一晩置いてみた・・・空気に触れて変わるカモ知れない......(内心、絶対そんなコト無いッ!と自分自身を叱るように言い放ちながらモ・・・)。未練たらたら、今晩の夕食時に小さなグラスに少量注いで、舌に触れてみたが・・・無惨・無惨・無惨!・・・。他のボトルは怖くてモウ見れない・・・目をつむって<流し>に捨てよう。
この可哀想なワイン達は20年近く、夏は30度を超えようかと言う我が家の倉庫に忘れられたまま、恨みの念を募らせて来たのであろうカ・・・コルクを抜くと、その怨念の情が伝わってくる・・・ゴメンネ・・・とほほ。
教室の生徒の演奏に限らず、最近若い音楽家の演奏を聴いて、想うことがあります。「音楽が何を現しているか」への気付きに関連して、(子供の頃から)少しでも多くの『自然体験』が必要なのだと思います。「爽やかな高原の朝の空気」とか「夕焼けから日没、天空に宵の明星が煌めくまでの自然の変化」、「夜明け前の山の端の空の色合いの変化」「昼の海の風と水平線の広がり」・・・挙げれば切りが無いほどの自然の有様を、その『肌』で感じることが非常に重要だと思います。
自然の中での様々な体験が、人間の感性に『命』を与えます。それなしに<楽譜>を演奏しても、何も現れては来ません。そのような演奏に数多く接する度に、音楽教育の前段階として『感性』を育む『体験』がいかに重要であるかについて考えさせられます。各家庭において、多くの体験が準備されていればいいのだけれど、そうもゆかないのが現状ではないでしょうか?・・・何か、方策が見いだされれば良いのだけれど。
さて!夏のミニコンの後は、恒例の《かき氷大会》を、生徒も父兄も先生も・・皆で楽しみました。
<夏のミニコンでの発表演奏/皆で恒例の《かき氷大会》>

