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クラシック音楽、jmc音楽教室、音楽企画制作、音楽普及活動、青少年健全育成、メールはjmc2001jp@gmail.com宛


by jmc_music2001jp

昭和54年10月19日  金曜日  西日本新聞  (夕刊)


熱狂を呼んだ小澤征爾  ザルツブルグ音楽祭  大畑恵三


オーストリアのザルツブルグはチロル地方のはずれにあり夏は乾燥してとてもしのぎやすいが、天気が変わりやすく、朝は快晴、夕は雨ということもしばしばだった。日本だと北海道ぐらいらしく、八月末は町中がコート姿になってしまった。


 十一世紀に築かれたホーエン・ザルツブルグ城を象徴とするこの町は、全体が昔のままの姿で残され、人々はゆったりしたテンポで生活している。しかし、毎年のザルツブルグ音楽祭(七月下旬から八月末)の期間には、音楽祭目当てに世界中からファンが集まり、日ごろ十五万の人口が百万にふくれあがる。


 五つの会場で連日行われる演奏会は正装の客で満員になり、中心会場であるフェスト・シュピーレル・ハウス前の道路にはドレス・アップのご婦人方の衣装を見るために人がきができる始末だった。町のショーウィンドーには今年の出演者のパネルがいたるところに掲げられ、町全体が音楽一色となり、ヨーロッパの夏の音楽祭の中心地としての華やかさと活気にあふれる。なにしろ、この音楽祭だけで一年分の収入をあげてしまうというから驚きで、このような町はほかにはあるまい。約五週間のシーズンを終えると、人ひとり見あたらないような町になるのに。


 今年の音楽祭は七月二十五日、カラヤン=ウィーン・フィルによるベルディの『アイーダ』で開幕した。私は第二回公演を中心会場であるフェスト・シュピーレル・ハウスで聴いたが、指揮、オーケストラ、歌、舞台すべてが聴衆を十二分にうならせるものだった。舞台装置や演出までカラヤンが担当、とにかくすべて一流にという考えが徹底していて『日本ではあと五十年か百年はかかるのでは?』と思ってしまった。


 この音楽祭は質的に世界最高と言ってもよく、ベーム、カラヤン、バーンスタイン、小沢、アバド、ムーティー、ピアノではポリーニ、ワイセンベルク、ゲルバーなど、世界の一流が連日その腕をきそった。なかでもバーンスタイン指揮、イスラエル響によるプロコフィエフの『交響曲第五番』は、名演中の名演だった。立体映画でも見ているかのように、つぎからつぎへと飛び出してくるリズムと音の渦は会場全体を巻き込んでしまい、楽章間の小休止にもセキ一つ聞かれないほど異様なふん囲気になってしまった。バーンスタインの偉大さを十二分に知らされた演奏会だった。


 それにしても、音楽の一番肝心なものは、レコードにはけっして入りきれないのだと痛感した。マイクロフォンから採られた音は、その音楽の外形と骨組みをレコードの音溝に残すのみで、今しぼり出され、生まれたばかりの音楽のエーテルのようなものは、そのときの聴衆の心に強い印象を残したまま、元の宇宙の裏側に消え去ってしまい、けっして現在のマイクロフォンでは採集できないものなのだ。この点が、出来、不出来はあってもナマの演奏会でなければならぬ決定的理由であり、もしレコードだけで音楽的感性を養うとすれば、それは恐ろしいことだ。


 小澤征爾=ボストン響は、音楽祭の後半に二回開かれた。初日は八月二十五日で、バルトークとブラームスというプログラムは聴衆を熱狂させたそうだ。私は小沢さんの親切で、二十六日のリハーサルと本番に入れていただいた。リハーサルのとき、突然カラヤンが舞台に現れ、ボストンのメンバーに『私は現在とても忙しいが、引退(ベルリン・フィルを)したら、まっ先にボストン響を振る』と言い、全団員の喜びの拍手かっさいを浴びた。カラヤンが次期ベルリン・フィルの音楽監督候補三人のなかに、小沢さんの名を挙げたと言われている昨今、興味深かった。本番にもカラヤンが姿を見せていた。


 本番はベルリオーズの『ファウストのごう罰』全曲だった。柔らかく輝かしい音色と、しなやかなリズム、どこをとってもすばらしく完ぺきな演奏で、曲が静かに終わると、それを受けるように静かに始まった拍手は時がたつにつれ興奮の渦に変わり、全体の拍手とブラボーで、オーケストラが退場したあとも何回となくカーテンコールが繰り返された。小沢さんの指揮はもちろんだが、フィッシャー・ディスカウの『メフィスト』のキャラクター作りや、ソプラノのフェでリーカ・フォン・スターデは後世に残る名歌手の素質を持っていると感じさせられた。


 この後、カラヤン=ベルリン・フィルなどの演奏会がいくつか行われ、八月末日に音楽祭は終わり、ザルツブルグは寒さとともに急激に秋を迎えた。  (指揮者・ウィーン留学中。福岡市出身)


(*左上写真)ボストン交響楽団を指揮する小澤征爾=ザルツブルグ音楽祭リハーサルから(筆者写す)

熱狂を呼んだ小澤征爾  ザルツブルグ音楽祭  大畑恵三  _d0016397_15420625.jpg


# by jmc_music2001jp | 2022-08-26 15:42

昭和54年10月19日  金曜日  西日本新聞  (夕刊)


熱狂を呼んだ小澤征爾  ザルツブルグ音楽祭  大畑恵三


オーストリアのザルツブルグはチロル地方のはずれにあり夏は乾燥してとてもしのぎやすいが、天気が変わりやすく、朝は快晴、夕は雨ということもしばしばだった。日本だと北海道ぐらいらしく、八月末は町中がコート姿になってしまった。


 十一世紀に築かれたホーエン・ザルツブルグ城を象徴とするこの町は、全体が昔のままの姿で残され、人々はゆったりしたテンポで生活している。しかし、毎年のザルツブルグ音楽祭(七月下旬から八月末)の期間には、音楽祭目当てに世界中からファンが集まり、日ごろ十五万の人口が百万にふくれあがる。


 五つの会場で連日行われる演奏会は正装の客で満員になり、中心会場であるフェスト・シュピーゲル・ハウス前の道路にはドレス・アップのご婦人方の衣装を見るために人がきができる始末だった。町のショーウィンドーには今年の出演者のパネルがいたるところに掲げられ、町全体が音楽一色となり、ヨーロッパの夏の音楽祭の中心地としての華やかさと活気にあふれる。なにしろ、この音楽祭だけで一年分の収入をあげてしまうというから驚きで、このような町はほかにはあるまい。約五週間のシーズンを終えると、人ひとり見あたらないような町になるのに。


 今年の音楽祭は七月二十五日、カラヤン=ウィーン・フィルによるベルディの『アイーダ』で開幕した。私は第二回公演を中心会場であるフェスト・シュピーゲル・ハウスで聴いたが、指揮、オーケストラ、歌、舞台すべてが聴衆を十二分にうならせるものだった。舞台装置や演出までカラヤンが担当、とにかくすべて一流にという考えが徹底していて『日本ではあと五十年か百年はかかるのでは?』と思ってしまった。


 この音楽祭は質的に世界最高と言ってもよく、ベーム、カラヤン、バーンスタイン、小沢、アバド、ムーティー、ピアノではポリーニ、ワイセンベルク、ゲルバーなど、世界の一流が連日その腕をきそった。なかでもバーンスタイン指揮、イスラエル響によるプロコフィエフの『交響曲第五番』は、名演中の名演だった。立体映画でも見ているかのように、つぎからつぎへと飛び出してくるリズムと音の渦は会場全体を巻き込んでしまい、楽章間の小休止にもセキ一つ聞かれないほど異様なふん囲気になってしまった。バーンスタインの偉大さを十二分に知らされた演奏会だった。


 それにしても、音楽の一番肝心なものは、レコードにはけっして入りきれないのだと痛感した。マイクロフォンから採られた音は、その音楽の外形と骨組みをレコードの音溝に残すのみで、今しぼり出され、生まれたばかりの音楽のエーテルのようなものは、そのときの聴衆の心に強い印象を残したまま、元の宇宙の裏側に消え去ってしまい、けっして現在のマイクロフォンでは採集できないものなのだ。この点が、出来、不出来はあってもナマの演奏会でなければならぬ決定的理由であり、もしレコードだけで音楽的感性を養うとすれば、それは恐ろしいことだ。


 小澤征爾=ボストン響は、音楽祭の後半に二回開かれた。初日は八月二十五日で、バルトークとブラームスというプログラムは聴衆を熱狂させたそうだ。私は小沢さんの親切で、二十六日のリハーサルと本番に入れていただいた。リハーサルのとき、突然カラヤンが舞台に現れ、ボストンのメンバーに『私は現在とても忙しいが、引退(ベルリン・フィルを)したら、まっ先にボストン響を振る』と言い、全団員の喜びの拍手かっさいを浴びた。カラヤンが次期ベルリン・フィルの音楽監督候補三人のなかに、小沢さんの名を挙げたと言われている昨今、興味深かった。本番にもカラヤンが姿を見せていた。


 本番はベルリオーズの『ファウストのごう罰』全曲だった。柔らかく輝かしい音色と、しなやかなリズム、どこをとってもすばらしく完ぺきな演奏で、曲が静かに終わると、それを受けるように静かに始まった拍手は時がたつにつれ興奮の渦に変わり、全体の拍手とブラボーで、オーケストラが退場したあとも何回となくカーテンコールが繰り返された。小沢さんの指揮はもちろんだが、フィッシャー・ディスカウの『メフィスト』のキャラクター作りや、ソプラノのフェでリーカ・フォン・スターデは後世に残る名歌手の素質を持っていると感じさせられた。


 この後、カラヤン=ベルリン・フィルなどの演奏会がいくつか行われ、八月末日に音楽祭は終わり、ザルツブルグは寒さとともに急激に秋を迎えた。  (指揮者・ウィーン留学中。福岡市出身)


(*左上写真)ボストン交響楽団を指揮する小澤征爾=ザルツブルグ音楽祭リハーサルから(筆者写す)

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# by jmc_music2001jp | 2022-08-26 15:42

昭和54年10月19日  金曜日  西日本新聞  (夕刊)


熱狂を呼んだ小澤征爾  ザルツブルグ音楽祭  大畑恵三


オーストリアのザルツブルグはチロル地方のはずれにあり夏は乾燥してとてもしのぎやすいが、天気が変わりやすく、朝は快晴、夕は雨ということもしばしばだった。日本だと北海道ぐらいらしく、八月末は町中がコート姿になってしまった。


 十一世紀に築かれたホーエン・ザルツブルグ城を象徴とするこの町は、全体が昔のままの姿で残され、人々はゆったりしたテンポで生活している。しかし、毎年のザルツブルグ音楽祭(七月下旬から八月末)の期間には、音楽祭目当てに世界中からファンが集まり、日ごろ十五万の人口が百万にふくれあがる。


 五つの会場で連日行われる演奏会は正装の客で満員になり、中心会場であるフェスト・シュピーゲル・ハウス前の道路にはドレス・アップのご婦人方の衣装を見るために人がきができる始末だった。町のショーウィンドーには今年の出演者のパネルがいたるところに掲げられ、町全体が音楽一色となり、ヨーロッパの夏の音楽祭の中心地としての華やかさと活気にあふれる。なにしろ、この音楽祭だけで一年分の収入をあげてしまうというから驚きで、このような町はほかにはあるまい。約五週間のシーズンを終えると、人ひとり見あたらないような町になるのに。


 今年の音楽祭は七月二十五日、カラヤン=ウィーン・フィルによるベルディの『アイーダ』で開幕した。私は第二回公演を中心会場であるフェスト・シュピーゲル・ハウスで聴いたが、指揮、オーケストラ、歌、舞台すべてが聴衆を十二分にうならせるものだった。舞台装置や演出までカラヤンが担当、とにかくすべて一流にという考えが徹底していて『日本ではあと五十年か百年はかかるのでは?』と思ってしまった。


 この音楽祭は質的に世界最高と言ってもよく、ベーム、カラヤン、バーンスタイン、小沢、アバド、ムーティー、ピアノではポリーニ、ワイセンベルク、ゲルバーなど、世界の一流が連日その腕をきそった。なかでもバーンスタイン指揮、イスラエル響によるプロコフィエフの『交響曲第五番』は、名演中の名演だった。立体映画でも見ているかのように、つぎからつぎへと飛び出してくるリズムと音の渦は会場全体を巻き込んでしまい、楽章間の小休止にもセキ一つ聞かれないほど異様なふん囲気になってしまった。バーンスタインの偉大さを十二分に知らされた演奏会だった。


 それにしても、音楽の一番肝心なものは、レコードにはけっして入りきれないのだと痛感した。マイクロフォンから採られた音は、その音楽の外形と骨組みをレコードの音溝に残すのみで、今しぼり出され、生まれたばかりの音楽のエーテルのようなものは、そのときの聴衆の心に強い印象を残したまま、元の宇宙の裏側に消え去ってしまい、けっして現在のマイクロフォンでは採集できないものなのだ。この点が、出来、不出来はあってもナマの演奏会でなければならぬ決定的理由であり、もしレコードだけで音楽的感性を養うとすれば、それは恐ろしいことだ。


 小澤征爾=ボストン響は、音楽祭の後半に二回開かれた。初日は八月二十五日で、バルトークとブラームスというプログラムは聴衆を熱狂させたそうだ。私は小沢さんの親切で、二十六日のリハーサルと本番に入れていただいた。リハーサルのとき、突然カラヤンが舞台に現れ、ボストンのメンバーに『私は現在とても忙しいが、引退(ベルリン・フィルを)したら、まっ先にボストン響を振る』と言い、全団員の喜びの拍手かっさいを浴びた。カラヤンが次期ベルリン・フィルの音楽監督候補三人のなかに、小沢さんの名を挙げたと言われている昨今、興味深かった。本番にもカラヤンが姿を見せていた。


 本番はベルリオーズの『ファウストのごう罰』全曲だった。柔らかく輝かしい音色と、しなやかなリズム、どこをとってもすばらしく完ぺきな演奏で、曲が静かに終わると、それを受けるように静かに始まった拍手は時がたつにつれ興奮の渦に変わり、全体の拍手とブラボーで、オーケストラが退場したあとも何回となくカーテンコールが繰り返された。小沢さんの指揮はもちろんだが、フィッシャー・ディスカウの『メフィスト』のキャラクター作りや、ソプラノのフェでリーカ・フォン・スターデは後世に残る名歌手の素質を持っていると感じさせられた。


 この後、カラヤン=ベルリン・フィルなどの演奏会がいくつか行われ、八月末日に音楽祭は終わり、ザルツブルグは寒さとともに急激に秋を迎えた。  (指揮者・ウィーン留学中。福岡市出身)


(*左上写真)ボストン交響楽団を指揮する小澤征爾=ザルツブルグ音楽祭リハーサルから(筆者写す)

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# by jmc_music2001jp | 2022-08-26 15:42

「日本の美」と「音楽」

 先日、Youtubeを見ていたら、長谷川等伯の「松林図」を取り上げて「日本の美」に触れていた。そこで<知足>(たるをしる)の一言で「日本の美」を語るのを聞いて、数十年前に毎日新聞に寄稿した折の文章を思い出した。


 丁度ウィーン留学から一時帰国中に受けた依頼で、龍安寺での体験から翻って「音楽」の背景にある問題点に触れた文章だったのだが、実はコレには裏話が付いてくる。


 龍安寺での体験に続く文章の後半は、当初はマスコミ(テレビ・新聞)へのこの上ないほど痛烈な批判だった。新聞社(西日本支局)に提出して間も無く「前半はこのままでエッセイとしていいのだけれど、後半を書き換えて欲しい」旨連絡が入る。それで3日ほどかけて丁度クリスマスの夜だったけど、1階の守衛さんに断って文化部の記者のデスクの上に原稿を届けた・・と云う経緯があった。後には「良くつなげましたねェー!」と記者から電話が入ったと云う裏話が付いてくる。今となっては「アノ痛烈極まりないマスコミ批判の文章・・・取っとけばよかったなァ」という思いがある。

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1982年(昭和57年)1月14日(木曜版) 毎日新聞


音楽と文化  大きい宗教的背景


 一時帰国した際には必ず立ち寄りたいと思っていた所があった。京都である。大学時代にも夜行列車で東京を発ち早朝の京都に着くと、いつも必ず龍安寺に行ったものだ。誰もいない石庭で好きなだけの時を過ごす。季節はいつも冬であった。


 十年ぶりで石庭と対面する。縁側中央の柱に背をもたせあぐらをかくと、石と石とに区切られた白砂がいきなり焦点を結んだ。精神の中心部に一気に何物かが入ってきたような、いや、むしろそこに「存在の原点」を見たような感覚にとらわれる。これが「日本の精神」だろうか、外国では接することの出来ぬものだ。私は静かな充足感とともに、三時間ほどもそこに坐り続けた。十一月の薄曇りの日であった。



 修学旅行もまだ多く、いろんな団体や外国人たちが入れ替わり立ち替わりやってくる。そんな時は目をつむり柱にもたれたまま、ほとんど眠ったような状態で坐っていた。そんな私のそばで誰かが喋り始めると、決まってこうだったーーー「庭石は全部で十五個だけど、どこから見ても十四個までしか見えないように配置されているそうだ」。そこで皆が数え始める。十二だ十三だとがやがやがやがややり終えると、そのまま回廊をまわって裏へと移動してゆく。それが判で押したように同じであったのは、何となく滑稽な感じさえした。


 しかしそれより驚きあきれたは、石庭解説用のテープが用意されていたことだ。団体がくるたびに頭上に取り付けられたラウド・スピーカーから女性アナウンサーとおぼしき人の声が始まる。「方丈の南側に向かって静かにお坐りください」。庭石の説明はといえば、大海原に鯨を浮かべ、胸を張った虎(このくだりは特に力を込めて語られる)に海を渡らせたり、水鳥の後を亀に追わせたりしている、というわけだ。こんな解説を三十回以上も聞かされた。「裏には“吾唯足ルヲ知ル”と刻まれた有名な石がございます」と言ってテープが終わると、まるでコンベヤーにでも乗せられたかのように裏へと移動する人たち。すべての団体が同質の行動をとったのには驚かされた。疑いもせずコンベヤーに乗せられる人たちも人たちだが、辺りの静寂を破って高々とラウド・スピーカーを鳴らすお寺もお寺である。


 そもそも「見る」ために作られた庭は「見る」ことによってしか理解できないのではないか。もし解説をするとすれば「吾唯知足」以外に言葉はないはずだ。しかしそれとても、まず「見る」ことへの努力無くしては効力を持ち得ない。見るものが「見える」ようになるまで、音楽においては、聴くものが「聴こえる」ようになるまでは、一種の退屈と戦わなくてはならない。そこに「言葉」を介在させた瞬間、対象と精神との間に交わされかけていた「電波」が「言葉」によって遮断されてしまう。対象が「聴こえる」どころか、「言葉」を確認するだけで終わってしまうのである。


 ところが、音楽における私の欧州生活は、その「対象」の中に大きな問題が潜んでいることを教えてくれた。西洋音楽が、欧米人の感情とも精神とも一致して在るのは当然である。そして民族の精神形成は、その住んでいる土地の気候風土とも、もちろん無関係では有り得ない。


 例えば冬。暗く厳しい寒さの中でじっと春を待つしかないこの気持ちは、その土地で数年を過ごしてみなくては、とても分かるものではない。春がこんなに待ち遠しく、これほど心を躍らせるものとは知らなかった。「春が来た!」ーー音楽も絵も、そう語る。この感覚を知らず、それを表現したり理解したりするのは、大へん難しい。


 しかしそれ以上に根本的に違うのは、宗教的背景である。西洋音楽の定着している国々は、キリスト教文化圏と一致している。私の目に最も新鮮に映ったことは、社会機構や芸術文化、それに人びとの日常感覚がキリスト教を基盤として、渾然一体となった一つの安定世界を作り上げていることであった。「人はパンのみにて生きるに非ず」音楽は自己を高め、「神の国に近づく」ものとして非常に重要視される。そもそも音楽は、教会の中で「祈り」と共に育てられ発展してきた歴史を持つ。少なくとも古典派までは、宗教音楽に限らずとも「神」への意識を離れて音楽を考えることは不可能である。このような西洋音楽を、その宗教的背景なしに共鳴することが出来るだろうか。


 日本の音楽界が技術的には世界に追いつきながら、芸術的には到達しきっていないといわれるが、問題点はそこらあたりにあるようだ。自然観と日常感覚が宗教観とともに渾然一体となっていまに生きている西洋音楽。一方、西洋音楽のもつ普遍性と日本人のもつ感受性とで形成されているわが国の音楽界。まずは「学ぶ」ことかも知れない。しかし、五十年や百年ぐらいで、民族の精神が変わるものでもあるまい。しからば、西洋音楽を日本人の血の中に消化することができるであろうか。それにはまず、己れを知ることから始めてみたいと思うのである。(指揮者)


◇ 大畑氏は福岡県大野城市出身。三十四歳。桐朋学園大学で故斉藤秀雄氏に師事。九響の巡回演奏などを指揮したのち、三年前ウィーン留学。指揮者オトマール・スウィートナー、セルジュ・チェルビダッケらの指導を受けている。今回、正月休みで一時里帰り。

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# by jmc_music2001jp | 2022-06-21 20:39

第122回“jmc音楽サロン”

 5月15日(日)第122回“jmc音楽サロン”を開催いたしました。当初は1月に開催を予定していた、恒例の新年の例会。コロナで2度。3度と延期になって、とうとう5月まで開催を延期することになりました。

 新年の例会は、毎年選りすぐりの日本酒を買い集めて、皆で楽しんで参りました。今年選んだ日本酒はIWCの日本酒部門で世界一の栄誉に輝いた酒を4本(!!!)、昨年の純米酒部門で部門最高のトロフィーを獲得した酒を一本準備いたしました。コレをコレだけ長く“お預け!”になったのですから・・・!

 思いは会員のメンバーも同じだったようで、本当に心から酒と肴、そして会話を楽しみました。全てのメニューが終了しても、根が生えたかのように、椅子に座り込み、4時間半の時間を楽しく過ごしました。

 全てのお料理を、写真に残すつもりでいましたが。本日の銘酒と始めの5品を撮影しただけで、モウすっかり忘れて酒宴にハマってしまいました(いつも、コンナ風.....)
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# by jmc_music2001jp | 2022-05-17 00:06