“幻の巨匠”セルジュ・チェリビダッケは僅かにNHK・FMのシュトゥットガルト放送管弦楽団の放送によってのみ知ることのできる幻の指揮者でした。
初来日は1977年、読売日本交響楽団の招聘によるものです。翌年も再度来日、一斎の無駄を省き『音楽そのもの』だけを示す姿勢は徹底したものでした。この折の2回の講習会に参加し、多くの《学び》をいただきました。
ウィーンのO.スイートナーのクラスで、ベートーベンの「田園」を課題に取り上げました。スイートナーが指先で机を叩きながら<農民の踊り>のメロディーを歌った時、彼の『手首のリズム』を見て衝撃を受けました。「このリズム感は我々日本人には無い!!」
それ以来、我々日本人の目指す方向はチェリビダッケのような、国も民族も歴史も排除し、純粋な『音楽』そのものを追求する・・・と言う方向しか無いのではないか?と思うようになりました。民族の歴史や習慣などの衣をまっとっていては、本場に叶うわけはありません。
2019年5月20日
<ブカレストのチェリビダッケ>
YouTubeでEnescuのRoumanian Rhapsody No. 1を聴いた。1978年の白黒映像。チェリビダッケの面目躍如と言った名演奏。音楽が生き物のように躍動している。チェリビダッケの表情の豊かさや「シリ振りダンス」も懐かしい、今にもソコに彼が生きているようにさえ感じられた。
その後、ヤンソンスの1994年のWaldbuneの演奏(ベルリン・フィル)で同曲を聴いてみた・・・一体この<違い>は何だろう???・・・考え込んでしまった。
ベルリンフィルのメンバーは「自分は演奏家」と自覚していて、今は「本番」・・だから「演奏する」。「俺はプロ」・・だからその演奏家としての務めを果たす。ヤンソンスは「この曲は楽しそうな曲」と思っているラシイ....。
チェリビダッケとは一体ドコが違うのだろう?祭りの広場の周辺の空気、囀る鳥の声、音楽が始まり、男女が登場し踊りが始まる...精一杯の輪舞・ステップ・次々と繰り出す踊り手・・音楽のエネルギーと踊り手の運動のエネルギーが一体化する。踊ることの原点、生命その物のダンス・輪舞...。
つまりは指揮者の<心の焦点>がどこに結ばれているかの違いなのではないだろうか・・・顕微鏡でつまみを回して観ていると<焦点距離>の変化に連れて様々異なる物が見えてくる。つまりは<同じ楽譜>を観ていても、<心の焦点>をどこに結ぶかで異なる音楽が見えてくるのだ。
“幻の巨匠”セルジュ・チェリビダッケは僅かにNHK・FMのシュトゥットガルト放送管弦楽団の放送によってのみ知ることのできる幻の指揮者でした。
初来日は1977年、読売日本交響楽団の招聘によるものです。翌年も再度来日、一斎の無駄を省き『音楽そのもの』だけを示す姿勢は徹底したものでした。この折の2回の講習会に参加し、多くの《学び》をいただきました。
ウィーンのO.スイートナーのクラスで、ベートーベンの「田園」を課題に取り上げました。スイートナーが指先で机を叩きながら<農民の踊り>のメロディーを歌った時、彼の『手首のリズム』を見て衝撃を受けました。「このリズム感は我々日本人には無い!!」
それ以来、我々日本人の目指す方向はチェリビダッケのような、国も民族も歴史も排除し、純粋な『音楽』そのものを追求する・・・と言う方向しか無いのではないか?と思うようになりました。民族の歴史や習慣などの衣をまっとっていては、本場に叶うわけはありません。
2019年5月20日
<ブカレストのチェリビダッケ>
YouTubeでEnescuのRoumanian Rhapsody No. 1を聴いた。1978年の白黒映像。チェリビダッケの面目躍如と言った名演奏。音楽が生き物のように躍動している。チェリビダッケの表情の豊かさや「シリ振りダンス」も懐かしい、今にもソコに彼が生きているようにさえ感じられた。
その後、ヤンソンスの1994年のWaldbuneの演奏(ベルリン・フィル)で同曲を聴いてみた・・・一体この<違い>は何だろう???・・・考え込んでしまった。
ベルリンフィルのメンバーは「自分は演奏家」と自覚していて、今は「本番」・・だから「演奏する」。「俺はプロ」・・だからその演奏家としての務めを果たす。ヤンソンスは「この曲は楽しそうな曲」と思っているラシイ....。
チェリビダッケとは一体ドコが違うのだろう?祭りの広場の周辺の空気、囀る鳥の声、音楽が始まり、男女が登場し踊りが始まる...精一杯の輪舞・ステップ・次々と繰り出す踊り手・・音楽のエネルギーと踊り手の運動のエネルギーが一体化する。踊ることの原点、生命その物のダンス・輪舞...。
つまりは指揮者の<心の焦点>がどこに結ばれているかの違いなのではないだろうか・・・顕微鏡でつまみを回して観ていると<焦点距離>の変化に連れて様々異なる物が見えてくる。つまりは<同じ楽譜>を観ていても、<心の焦点>をどこに結ぶかで異なる音楽が見えてくるのだ。
2021.5.18
2年前の投稿です。ウィーン留学から40年、秋山和慶氏と“恩師・斎藤秀雄の遺志を継承する事業”をと話し合いを始めてから16年、今年4月3日にTohsai Music Networkを立ち上げました。
これから皆さんのお役に立てることを願いつつ、一つひとつ仕組みを作り上げて行きます。
<所長の独り言-「令和」6 >
jmc音楽研究所は全国の音楽家の教授活動の支援につながるインターネット上の仕組みの構築を目指しています。<生徒募集><アンサンブル講師紹介><特別レッスン講師紹介><楽典学習支援><聴音学習支援>等々の仕組みです。全国の音楽教師の方々のニーズを繋げ、全体の教育成果を高めるのが目的です。
我々は30年以上音楽教室を経営してまいりましたが、例えば<聴音>などのレッスンを専門的に受講する生徒の数は減少傾向にあると思います。昔ほど専門的な内容まで踏み込んで学習する生徒は少なくなり、色々のお稽古事を広く浅く・・・という傾向にあるように見受けられます。
優れた人材を育成したいと願う我々としては、どのような状況にあっても(可能な限り)十分な教育環境を提供しておかなくてはならないと言う立場であることには変わりはありません。桐朋学園や東京芸大のように頂上を育成する機関はその役目を十二分に果たしていただければ良いわけではありますが、その裾野の広がりと内容の充実に脆弱性があれば、その成果にも大きな影響があることは自明です。この部分の欠落を少しでも埋め合わせておきたい…そう言う思いです。