私の音楽における最も貴重な体験は、今から四十年程も前にさかのぼります。欧州留学の第一歩を印したザルツブルグにおける「出会い」、それは偶然とも言えるものでした。
旧市街、ホーエン・ザルツブルグ城の建つ小高い丘は、爽やかな夏の風と美しい緑に包まれた格好の散歩道でした。ある日、その丘を縦走するコースを散策いたしました。ザルツァッハ川の下流側から登り、ホーエン・ザルツブルグ城の下を通り過ぎて、上流側の端までの道を歩いたのです。
旧市街を左手に見ながら、丘の端にたどり着いたのは夕方近く。柔らかい夕暮れの日差しが辺りの風景をオレンジ色に染めはじめていました。突き当たりまで来ると、道は右側にカーブをきり、丘の裏側へとつづいています。カーブするところにアーチ状の門があり、見上げる位置にマリア様の像が立っていました。
丘の裏側は、遠くオーストリア・アルプスの峰々を背景に、教会の尖塔が夕日に輝く美しい風景がひろがっていました。道にそって丘の裏側にUターンしますと、右手に門があります。修道院のお御堂、私は大きな重い木の扉を押して、中に入りました。
誰一人いないお御堂の中は、暗く静まりかえっています。堂内をゆっくりと見たあと、後方にある木の古い長椅子に座りました。薄暗い静寂の中で、まるで止まってしまったかのような時の流れ・・・。
修道院の小さな鐘がなり、後方の頭上から人の歩む足音が聞こえました。二階部分の窓がお御堂の内部へ向かって半開きとなっています、そして何やらもの音がした後、お御堂の中にオルガンの音が流れ込んでまいりました。“夕べの祈り”が始まったのです。予想外の出来事に、静かに耳を傾けながら座り続けました。
お祈りの言葉はありません。すべてが賛美歌です・・・。そして、聴くうちにそれが「歌」さらには「音楽」ですら無いことに気付かされました。そのすべてが「祈り」そのものだったのです。それ以外の何物も、そこにはありません。
ヨーロッパに着いたばかりの私は、日本での音楽活動のことを思い返していました・・・我々は「何か」をやろうとしすぎていたのではないか・・・、ほとんど意味も分からぬままに、何かを「表現」することが演奏することだと思ってはいなかったか・・・・。
この体験が私の音楽人生のターニング・ポイントになったことは確かです。その後、ザルツブルグを訪問する度に、私は必ずここ(ノンベルク修道院)を訪ねます。旅の同行者にも是非とも体験してもらいたくて訪れるのが、ノンベルク修道院の“夕べの祈り”です。
今日、音楽に「魂」が失われ、宗教音楽にさえ「祈り」が見失われています。音楽が「表現」の一手段となり、演奏がパフォーマンスと化しています。「魂」はどこにいったのでしょうか?「心」は何処にその住処を変えてしまったのでしょうか?これは、単に「音楽」だけの問題ではなく、現代という「時代の精神」の抱える問題なのではないのだろうか・・・そんな気がしてなりません。